お接待文化を次世代へ 遍路道物語②
先週に引き続き、お遍路文化を伝える活動に尽力されている
NPO法人 遍路とおもてなしネットワーク
松田 清宏 理事長にお話を聞きました。
先週はお遍路のルーツについてお聞きしましたので、
今週は四国でお遍路を受け入れる「お接待」のルーツについて教えてください。
NPO法人 遍路とおもてなしネットワーク
松田 清宏 理事長
村々を修行僧が托鉢をして回り、人々がお布施していったことが
「お接待」に昇華していったのです。
そのあと、修行僧だけでなく人々の間で
四国に霊場があることを伝聞の形で伝わったと思います。
そして、江戸時代にお遍路の紀行文。
今でいうガイドブックの形が刊行されています。
そのころには日本の生活レベルも格段に上がり、
庶民でも旅ができるようになっていたのです。
逆に言えば「お四国」を回るということであれば
通行手形が下りやすかったのではないかと思います。
まだまだ人数的には少なかったとは思います。
受け入れ側で言えば、最初のルーツは修行僧ですから修行僧に対する心遣いが
「お接待文化」として根付いていった。
修行僧に「家の軒を貸してください」と言われれば貸したでしょうから
それが今の「泊まってもいいよ」という接待文化に繋がっていったと思います。
もてなす側は、寄っていただいたお坊さんに自分の「想い」を乗せて
お坊さんに自分の代わりに「お四国」に行っていただくのです。
つまり「お接待」は相手のためだけではなくて、
自分の心、自分のためにお接待を行い
お遍路さんに自分の「想い」を
一緒に回ってもらうためにするものであるという
精神論へ繋がっていったのでしょう。
だから、見ず知らずの方でも「泊まってもいい」というお接待文化に昇華していったと思います。
ではお接待を受ける側は?
《松田理事長》
お接待を受ける側は与えていただいた「お接待」を断るなと言われています。
お接待を受ける側は、「お接待」する気持ちを受け止めて一緒にお四国を回らなければならない。
だから「お接待」を遠慮してはならないという、
お遍路さん側の文化もあるのです。
香川に来た人を案内することがあると
私の一番好きなコースの五色台の白峰寺から根来寺にお連れするのです。
その歩き遍路道がちゃんとあり、その途中に子どもたちもよく食べ物などを接待する
接待所があるのです。
その直ぐ脇に5基のお墓があります。
墓石を見ると播磨の方が亡くなっていることがわかるのです。
たまたまその場所は五色台の上の方に位置しているため
播磨の地が見えるのです。
年代も墓石に書かれていて、江戸時代です。
恐らく、当時40~50日も歩いていて具合が悪くなり、
残念ながらお遍路の途中で亡くなった方を地元も方が弔って、
播磨の方角に向けて墓石を建ててくれているのです。
お接待というのは、単にお遍路で回る方々のためだけでなく
残念ながら遍路の途中で亡くなった方のためにも法要をして
魂が出身地に戻れるようにと墓石を方角に向けて
建立まで行ってきていたのです。
私も、最初にその墓石を見た時、感動しました
俳人の黛まどかさんもお連れしました。
遍路道から外れるのですが、昔はその道が遍路道だったのかもしれません。
しかも、その5基の墓石は江戸時代でもそれぞれ年代が違うのです。
一度に亡くなったのではなく、別々に亡くなっているようです。
播磨の国からもお遍路さんが当時から来られていたのでしょうね。
さらに親子遍路で回っている途中、
不幸にも親を失った子どもさんを
村から村へ繋いでして出身地へ戻したという記録まであります。
お接待は物を差し上げる、宿を提供するというだけでなく
人生のお終いまでの面倒までお世話をしていった。
お接待というその行為は、その方のためだけでなく
自分に戻ってくるのだという双方向のご利益の文化と言えます。
ここが遍路文化の素晴らしいところです。
定跡などは、今はガイドブックに掲載されているのですがこの話はガイドブックにはないのです。
その小さな墓石は今の遍路道ではないので、道を整備していったら出てきたのです。
今、ボランティアの一環で道を整備している中で、埋もれていたものが発見されたのです。
昔の遍路道は廃道になっていて、廃道になった道を整備していけばまだまだ出てくる可能性があります。
世界遺産の登録に向けての働きで、道を整備していくことが
歴史的発見に繋がっていくことがあるのです。
今の道と江戸時代やその前のスタートの頃の道が変わっていても
おかしくない。
道を残していくことは大事なことで、今のお遍路さんのサポートにもつながり
世界各国からのお遍路さんにとっても歩きやすくなるものなのです。
それが世界遺産をバックアップし、大きく導いてくれると信じています。