遍路道で出会う、巡礼者を気遣い受け入れる『やさしさ』物語
四国に根付くお遍路文化についてを
2週に渡ってお聞きし、
香川に残る古い遍路道を自分でも歩いてみたくなりました。
そこで今回は
遍路とおもてなしネットワーク 常任理事 北山健一郎さんの
ご案内で五色台に残る遍路道へ行ってきました。
今、北山さんと私が立っているところが「十九丁」という場所です。
《北山さん》
五色台のちょうど中心あたりになるところで、
札所で言うと81番白峰寺から82番根香寺へ向かう間になります。
根香寺に向かう道のなかで残りの距離数が十九丁。大体2キロ半くらい。
広場になっていて、お遍路さんは一旦ここで休憩して、
残りの根香寺までの道を歩くというような江戸時代から使われている場所です。
その時代からずっと続いてきた遍路道の只中ですね。
《北山さん》
そうです。
ちょうど真ん中よりは、根香寺寄りですが
当時の面影を知るには絶好の場所です。
この「十九丁」の数字はどこを起点にしているのですか?
《北山さん》
起点は白峰寺の門前に「五十丁」という丁石があります。
そこからだんだん数字が減っていって最後は根香寺の駐車場の奥に「一丁」という丁石が立っています。
順番に歩いていくお遍路さんにとっては「あとこれだけだ」と、わかる丁石になっているのです。
数字が重なっていくのではなく、数字が減っていく正に「カウントダウン」。
順番に歩いていくと、数字が減っていく方が気持ち的に楽になるように思います。
お遍路さんの心情を表してくれているようです。
数字が並んでいるだけなのですが、お遍路さんの背中を押してくれているように感じます。
険しい山道では特にそう思うかもしれません。
この場所は少し広場になっていて、よく整備されていますが、
それでも山の中。
《北山さん》
山の中で何もないところ、夜には本当に真っ暗になるような場所です。
夜にはお遍路さんは歩きませんが、ちょうどここが広場になっていて
ちょっと休んでまた歩き出すには絶好の場所です。
白峰寺と根香寺に向かう道と合わせて、もう一本道らしきものがありますか?
《北山さん》
ここがちょうど交差点。もう一本南に抜ける道が「十九丁」から伸びているのです。
これが80番国分寺へ五色台の急な坂を下りていく、または登っていく道。
いわゆる「遍路転がし」と呼ばれる道で、「十九丁」を越えたあたりの坂よりも
もっとキツイ坂となります。
「順打ち」なら国分寺から五色台の急な坂を上がってきて、この「十九丁」に辿り着く。
右に行くと根香寺、左に行くと白峰寺。
順番に行こうとすると左を取って一旦白峰寺にお参りした後
また同じ道を「十九丁」までは引き返すと行くことになっています。
地図で見るとそんなに離れていないように見えますが、歩き遍路となりますと相当大変な道のりですね。
白峰寺から根香寺までは約5キロくらいなのですが、アップダウンがかなりあるので
普通の平地を5キロ歩くのとはわけが違うのです。
さて、ここには「お接待」の様子がうかがわれました。
「お遍路さんを元気にする接待所」と書かれています。
《北山さん》
まさにこれが現代の「お接待」ですね。
色々なものが置かれていて、非常にありがたいものになるでしょうね。
お遍路さんは励まされますね。
お地蔵さんの前に設置されていて、ここで一息つく感じになるでしょうね。
今はベンチが置かれていて整備されているのですけれども、実はこのベンチの置かれている下あたりを、以前に県の発掘調査が行われました。
その時にここにお堂のあった跡が見つかっておりまして、お遍路さんが休憩するような
「素宿」というような施設がここ「十九丁」は建てられていたことがわかっています。
「十九丁」にやってきたのはもう一つ理由があります。
お遍路さんの歴史を刻む史跡のようなものが残っているそうですね。
《北山さん》
「十九丁」の広場前に大きなお地蔵さんがあります。
このお地蔵さんはおそらく江戸時代くらいからあるのだろうと思います。
当時、皆さんの安全なんかを祈願するために建てられたのだと思います。
その他にも、道しるべと言われている道標もいくつかあります。
このお地蔵さんの目の前にあるものが、道標の一つです。
「右 白峰寺至」「左 根香寺へ」
と刻まれています。
これは、まさに道しるべ道標です。
お遍路さんたちはこの道標を見て確認しながら歩みを進めたのですね。
周りにも同じような大きさの道標が立っていますが、一つだけ
道標と形が違うものがあります。
お地蔵さんに向かって左側に建っているてっぺんが三角になっていて
正面に向いているところが彫り込まれて文字のようなものが書いてあるものがあります。
お遍路をしていてお亡くなりになった人をお祀りしている「遍路墓」になります。
県内各地にありますが、ここにも「遍路墓」があります。
今はうっそうとした森があるあたりは、その先に海の見える場所ですね。
《北山さん》
瀬戸内海の方向を向いていますね。
今は木が生い茂っている感じになっていますが、
瀬戸内海の方面を向いていることは間違いないですね。
誰が供えたのか、お茶やお水などがお供えされています。
残念ながらお遍路の途中で亡くなってしまった方を弔う気持ちというのが
脈々とこの讃岐に息づいてきたのですね。
《北山さん》
そうですね。お遍路さんでも途中でお亡くなりになった方は、
懇ろに弔ってあげるというのも「お接待」の一つなのです。
それともう一つ、こういったことは決められたルールというのがあります。
重病になった場合は各村で介抱してもし亡くなった場合は弔ってあげなさいと
ある意味決められたルールとして江戸時代にはあったことがわかっています。
こういった形で墓石を作ってあげるというのも村を挙げての「お接待」の一つということになります。
遍路の途中、志半ばで倒れた方もきちんとしてあげようという心持というものが見て取れるものです。
ここに来なければ、気が付かずわからないものでした。
残念ながら今の私たちは口伝えなどでは伝わらずに、知らないままであることが多いですね。
四国遍路の良い部分が未来へ受け継がれていけるように
していくことが現代に生きる我々の義務なのかなと思っています。
「十九丁」のところに普通のより大きな道標が立っています。
《北山さん》
これは有名な中務茂兵衛(なかつかさもへえ)。明治大正の大先達と言われている
中務茂兵衛というお遍路さんの建てた道標になります。
茂兵衛は生涯お遍路さんをし続けたと言っても過言ではないくらい280回程度お遍路をしていて最後道中でお亡くなりになっています。
何百個も道標を作って四国中に設置し続けたので、今でも四国四県のどこに行っても
茂兵衛の道標は見ることができます。
この道標に「八十度」と書いてあります。八十回目の遍路で建て道標あることがわかります。
道標に刻まれた数を追っていけば中務茂兵衛がどういったルートを通ってお遍路していたかが分かるようになります。
もちろん茂兵衛が願主として、ここに道標を建てようという
思いに共鳴して
施主という形で地元の方などがお金を出して実際これが作られました。
この道標高さが1mくらいありますが、もっと大きい道標もあります。
茂兵衛の道標は数あるものの中でも比較的大型です。
ちょうど国分寺から上がってくる道と白峰寺・根香寺に向かう交差点にあります。
「十九丁」の広場にあります。
その道標、指の形で「根香寺」を指しています。
そして東京の文字も見えます。
おそらく施主が東京の人なのでしょう。
東京日本橋 浜町1丁目 そして屋号があります。
明治29年とありますね。
こういうところに歴史を見ることができるのですね。
道標の指さす方向へ、根香寺へ向かいたいと思います。
ここが「十九丁」ですから、進めば数字が減っていくということですよね。
18→17と数字が減っていく「丁石」が見られると思います。
ここも風情がありますね。
ちょうど良い頃合いに「丁石」があるのですね。
ここは、81番札所白峰寺と82番札所根香寺の間になります。中山休憩所というところですね。
《北山さん》
ここはアップダウンが多いので、現代人には疲れる道になります。
80番札所国分寺をお参りした後は、順打ち参りでいくと
五色台の急な坂道を登っていって白峰寺へ向かいます。
この坂道がかなりの急坂なので、「遍路転がし」と呼ばれるところで、
登っていくと「十九丁」という広場になっているところでしたね。
そこから西に行くと81番札所白峰寺になります。
順打ちでいくと白峰寺をお参りしてから一旦、「十九丁」まで戻ってさらにそこから
東へ歩みを進めて82番根香寺へ向かうというのが、基本的な順番通りになります。
「十九丁」から白峰寺を往復するような形になるのですね。
《北山さん》
まさにそういうことになります。
江戸時代には、一旦行った道をもう一度戻るのを
崇徳天皇ゆかりの79番札所天皇寺をお参りした後に国分寺に寄らずに
五色台の西側の高家(たかや)口というところから入って
先に白峰寺をお参りして、根香寺もお参りした後で坂を下りて
国分寺に行くという人もいたようです。
どうも五色台の遍路道の中は昔からいろいろな使われ方をしているので、
そういったことからも四国遍路は順番に回らなくてもいいのだよという
ルールが昔からあったことがわかります。
自分の回りやすいようにというやり方は、現代に限らず昔からなのですね?
《北山さん》
そうです。これは香川県に限ったことではなくて他県でもそういったことがありますので
決められた順番通りに行かなければならないという縛りがあるわけではないのです。
これがいわゆる「根香寺道」と言われている道の一つになります。
ここは未舗装でもともと歩き遍路で使ってきた道になります。根来寺と白峰寺の間で
一番古い景観を残しているところになります。
「十五丁目」の丁石(ちょうせき)を見つけました。
白峰寺から根香寺に向かうお遍路さんがあとどれだけ歩くかわかるように
石に刻まれたお地蔵様と丁数が刻まれています。
白峰寺を出発した時が「五十丁」で根香寺が「一丁目」。
あと残り何丁かというように
だんだん数が減っていくようになっています。
確かに数が上がっていくよりは、数が減っていく方が感覚的に楽に感じます。
「十九丁」広場から遍路道を上がって、一部県道を横断して
丁石を辿りながら根香寺まであと少しというところまでやってきました。
《北山さん》
ここは「三丁」というところです。
ここも広場になっているところで、つい最近できた
これは遍路小屋です。
今のお遍路さんが休憩できるように建てられているところになります。
先ほどの「十九丁」は国分寺・根香寺・白峰寺の3つの交差点に当たる場所でしたが、
この「三丁」も実は白峰寺から根香寺までやってくる遍路道と別ルートで
鬼無の方面に下りて次の一宮寺を目指す遍路道の交差点になる部分にあたります。
見晴らしが良い場所になっています。
ここは「三丁」で、残すところ二丁と一丁になる場所です。ここに来るまでに
道中には「接待所」があり、見たところここもその一つですね。
ここも地元の子どもたちが主に運営している「お接待所」があって
先ほどの「十九丁」にも「接待所」と同様に
人がいなくてもお接待の心持ちが伝わってきて
季節は寒い冬ですが「心がほっこり」するような感じになりますよね。
人はいないですが「出会った」という気持ちになりますね?
この接待が特定の人に向けてという限定的なものでなく行われていますね?
《北山さん》
「誰でも受け入れる」という四国遍路の良いところでもあり
そうでないと思われているところかもしれませんが
江戸の昔から「多様性を受け入れる」という意味では
古くて新しい感覚を持っていた巡礼路と言えます。
今の時代に照らし合わせることができる感覚ですね。
老若男女問わず、いろんな立場の人も分け隔てなく受け入れているというのは、
これからの見本となるような社会の構成の仕方を表しているのかもしれないですね。
ここは、標高の高いところでもあります。
今回は、北山さんとご一緒でしたが一人でと
想像すると怖くなるような道もありました。
《北山さん》
鬱蒼としている森の中を通ったりしますので
一人では心細いとは思いますが、
「同行2人」といったところが、
そういった心細いときに本当に励みになる言葉として
お遍路さんには受け入れられていると思いますね。
雨が降れば菅笠が必要になり、坂を登るときには金剛杖をついて
お大師さんのお力を借りながらお参りをしている
という感覚になるのかもしれないですね。
普段生活をしていると、「遍路道」とはいっても
何気ない山道であったりちょっと古い生活道であったりして
特別の思いを持たず通り過ぎている道だったりしませんか?
《北山さん》
そういう感覚は誰しも持ち合わせていると思います。
「遍路道」として作られた道は一本もない
のです。
普段から生活に使っている道をお遍路さんが通っていて、
お遍路さんが通りやすいように道標や丁石が整備されていったことで
「遍路道」と呼ばれるようになったのです。
いわゆる
昔からの生活道=遍路道
もちろんすべての遍路道が生活道ではないですけれども
それこそが
庶民に根差している巡礼の文化
なのだと言えますね。
私たちの今歩いてきた道は史跡になっているそうですね?
《北山さん》
そうですね。我々が登ってきた白峰寺から根香寺までの道の大部分は
国の史跡として保護はされていますけれども
それ以外でまだ保護されていない古い道というのもまだありますから、
そういったところを早く国の文化財として認められるように
みんなの力で当時の姿のままのこしていくことが大事な事かなと思います。
この山道の要所で休憩所やトイレが私たちの知らないところで整備されているところからも思いを感じました。
《北山さん》
なかなか史跡に指定されると、その史跡の中に
そういった場所は整備が難しくなるのですが
すぐそばに休憩所などを設置したり
もちろんオリジナルを残すことも大事なのですが
それをいかに活用にて次の世代の人にも使って頂くかを考えて
休憩所やトイレなどの整備がこれからますます必要になってくると思います。
《北山さん》
文化財は古い建物だけでなく、本当に地味であっても
歴史的な価値というものは遍路道にかかわらず
他の文化財にしてもいかに次の世代に繋いでいくかということが大事なのだと言えます。